7月7日
だいたい、小説とかアニメとかのことを書くブログを予定しているのだけど、
時期も次期もなので例外から。
比喩的表現として手元にデスノートがあったとして、議員先生の名前を全て列挙したとしたら、この国が善い方向に進むと思うかと問われれば、否と答える。
誰でもいい場所に、ずっと居続けているという事実*1が政治家の権力を支えているのであって、それが奪い去られてしまった後に残るのは、集票力を持つ組織の利害を反映する傀儡の群れである可能性が高い。もちろん、当選回数を重ねて操り糸から半ば自由になった人々が、国民の利害という巨視的立場ではなく、個人の利害という顕微鏡的立場でものを考え始めるというのも見慣れた喜劇ではあるわけだが、そこは政治家各位の人間力を信じるしかない。*2
結局、ネット上では「人民は、自分たちは自由だと思っているが、それは大間違いである。彼らが自由なのは、議員を選挙するあいだだけのことで、議員が選ばれてしまうと、彼らは奴隷となり、何ものでもなくなる。」などと賢しらさをアピールしつつ、ボクたちは選挙に行くべきだし、行くしかないのだ的エチカに反論するのは困難だと呟きながら投票行っとくのが、現状での最適解なのだろう。
で、ここからが本題なのだけど、今からゼロベースで代議制民主主義を構築しようとしたとき、現代の技術水準であれば、議員の活動を24時間一定以上のレベルで記録し続ける可能であり、そうするべきではないかという議論になるだろうと思う。セキュリティ上の問題は、収録と公開との間に時間差をもうければ問題無いわけだし、金には色がついていない云々も、おそらくこのままのペースで電子マネーが普及していけば、色をつけれるようになる日も遠くはない。
言うまでもなく、イタチごっこにはなる。ただボクたちは、政治の話をするのに未だにしばしば古代ギリシャなりローマに遡ったりするわけだけど、古代の人々が政治家に求めた人間的な徳の半分くらいは技術的に強制できる地点にいるはずなのだ。そして、間違いなく、あと10回選挙を繰り返したとしても、政治家たちはおそらく規正法か規制法かみたいな次元の議論から出てこようとはしないだろう。この差を埋める策の名をボクたちはまだ知らない。